私は企業研修等でビジネスマンに関わる機会が多い関係で日本の「教育」についても考える事がある。なぜなら、現在のビジネスマンの思考や行動は、子供のころから受けてきている教育によって基礎ができているからである。
その中で一番問題だなと思っている事は「理由」と「目的」を考える習慣が希薄である事だ。
例えば、就きたい職業を考える際にも「~に入る」「~になる」事は考えるが、「なぜなのか?」「~になって、~に入って、何をするか?」そして「どんな貢献をするか?」は考えていない。
いや、考えていたとしてもどこかで刷り込まれたような、そして、対処的な「薄っぺらい」言葉しか出てこない。
これは、私たちが受けてきた教育が社会にとって便利な人材の育成に向いていた為、深く思考する事よりも目の前の事に「早く」「忠実に」対応する事を求めてきたからではないかと思う。
恐らく、一般市民から「総理大臣」までそういう方が圧倒的に多いのではないだろうか。
嘘だと思ったら、「岸田首相」に聞いてみればよい。恐らく、なぜ総理大臣になりたかったのか?そして、何を成し遂げたいのか?について「具体的な」、「熱のある」、「彼の言葉」での回答は得られないのではないか?
現状を見ていると総理大臣になった事で満足していて後は、自分の任期をなんとか無事に全うする事しか念頭にないのではないか?そんな風に思えて仕方ない。
したがって、日本の教育が取り組むべき事はあらゆる事柄に対し、「なぜなのか?」を考え、言葉に出し、議論する教育に変えてゆく事だ。そして、そのためにはまず、小学校から学ぶ教科の中に「歴史学」を取り入れる事ではないかと思う。
「えっ?歴史って習ったじゃない」と思われるかもしれないが、私達が学校で習った事は「何年に何が起こった」と言うようなやつであり、あれは「社会学」の中の「歴史に関する知識」であって、歴史学ではない。
歴史学とは、なぜそのような事が起こったのか?を体系的に世界的なつながりの中で考えてゆく学問である。世の中で起こった事、事件には必ず理由や動機がある。
それを考察しながら、思考力を深め、流れの中で出来事を捉えてゆく事が大切だ。
そうすれば、日本人が囚われている「自虐史観」からも脱却する事が出来る。
なぜ、日本が闘ったのか?闘いに向かって行ったのか?は、日本の出来事だけ見ていても理解はできない。海外がどのように動いていたのか?目的は何だったのかと言う考察ができれば、新たな見方が出来るようになる。
それが正しいかどうかは別として、様々な可能性を考える事によって「知識コピー能力」偏重から、脱却できるのだ。
また、同時に歴史をグローバルに捉える事によって「変わっていない構造」がある事にも気が付くはずだ。誰がルールを決めて、利権を争っているのか?ゲームを作っているのは誰か?である。
現状の教育は「覚えて」「吐き出す」の連続であり、目先の事に努力し、対応する力は養われても「答えのない」事に対峙すると途端に「フリーズ」してしまう。
視野が狭く、近視的であるからだ。
だからこそ、マスメディアに対する見方が嫌疑的になってきた今、歴史から学び、情報を自分で集め、一つの答えでは語る事の出来ない可能性を考える良い機会ではないだろうか?